始まりの物語

自転車で15分。ゆるい上り坂と長い下り坂を走りパート先の事務所に向かう。所々、空気の温度や香りが変わることを感じながら走り抜けるこの数分はかつての私にとって心地良い時間だった。午前10時から午後4時まで事務の仕事をこなし、今度は長く続く上り坂。自転車をこいで家路につく。

事務所は基本私一人で時々人が訪ねてくる。ほとんどはメールで用件は済ませるが暇な事はほとんどなく、ある意味、頼られ責任をもってできる仕事に充実感も感じ、「60歳までいてね。」と言われていた。

家に戻ればわが子は小学生と中学生。部活や勉学に励み、私はそんな子供達の成長を楽しみに過ぎる日々。なのに、40代の私はいつも自問自答していた。「生涯かけて私がやりたい事は?」

その想いはどんどん膨らみ、とうとう責任者に仕事を辞めたいことを伝え、仕事を任せられる次の女性をみつけ、職を離れた。その間、次に何をやろうかとずいぶん探したがピンとくるものがない。次の職を見つけられぬまま離職となった。この時、その事を責めるわけでもなく見守ってくれた家族に感謝したい。

私には十分な時間ができたが心は静かに焦り、まるで仕事のようにみっちり時間をかけてダックワーズ(焼き菓子)を大量に作ってみたり、おからを使った商品はどうかと幾つも試した。そのほとんどは家族のお腹に入り、「またおから?」と娘に言われた。

そんなある日、ポストに届いたフリーペーパーを見ると表紙に養蜂家が載っている。富山県内の養蜂家Sさんだった。活動内容を食い入るように読み、更にインターネットで調べ、直接電話をして訪問したことから私とミツバチとの出会いが始まった。

彼のミツバチに対する愛情は清々しく、彼の生活にすぐに憧れた。「ミツバチを飼ってみたらいいのに。」と、私の手に乗せてくれたオス蜂(オスは針を持たないので刺さない)。「最初はお金がかかるから40万円は用意しておいたほうがいいよ」と言われ、その頃には頑張って用意しようと思った。が、反面、自分でもこれを生業にするとは考えられず、いつでも辞められるように出費は最小限に、とも思っていた。ただミツバチと共に過ごす生活を趣味でもやってみたかった。家に戻ると、借りた本を読み漁りミツバチに関する知識を深めた。まずは夫を説得しなくてはならないからだ。

我が家は義父の世代からサラリーマン家庭であり、加えて、はちみつを食べる習慣がほとんどない。ミツバチを飼いたいというと反対される、思ったとおりだった。諦めず毎朝、夫が新聞を読んでいる前でミツバチの生態を語り、いかにミツバチは優れた生き物か、花の蜜と花粉と水だけで生きていけることや、ミツバチを飼う事がヨーロッパでは上流家庭のステイタスであること、云々。犬を飼うと世話が大変だが、ミツバチは散歩もエサも排泄の世話も掃除も必要ない、さらにかわいい!など日々語り続けたら、とうとう夫は「勝手にしろ!」と言った。やった、勝手にしていいんだ、「ありがとう!」。この話、のちに夫がいうには、勝手にしろと言ったら普通は思いとどまるはず、と。

春になり、めでたくミツバチ8,000匹入りの巣箱が1つ手に入った。先輩養蜂家に習いながら家の軒先で飼い始めて驚いた。思った以上にはちみつが採れるのである。さらに癖がなくておいしい。

後から分かったことだが私の嫁入り先のこの地は、隣に呉羽丘陵が広がりそこには2軒の養蜂家が住まいをしながらミツバチを飼っていた。さらにほかの地域に住む養蜂家も巣箱を置いていたほど蜜が採れる山だったのだ。私が養蜂を始めた頃にはその方はすでに逝去されており、ご家族(夫婦)から倉庫の中で、もう使えないほどに朽ちた巣箱群を見せてもらった。今も山中に住むそのご夫婦は巣箱を置くにふさわしい場所を丁寧に教えてくださり話を聞かせてくださった。おいしいはちみつが採れる木を植えていた事など。その木が大きくなり何も努力していない私が蜜をとらせて頂いていることに、今も申し訳ない気持ちと先人の願いを引き継ぐ何かができないかと思っている。

数年前、自転車で通り過ぎていた呉羽山。「雑木林」と思っていたが、それは私が無知だからであり実は宝の山だったのだ。富山市街地に近く、ぐいっと高さが出たここは眺望がひらけ、富山湾から立山連峰まで隅から隅まで見渡せる。長く続く小高い山は人間にとってだけでなくミツバチにとっても過ごしやすいのだ。自転車通勤の時に感じていた温度や香りの変化は花々が流蜜していた証拠(流蜜とは、花が咲き蜜を持つことを養蜂家はこのように言う)。

その後、巣箱の数を増やし、現在は私が15群。数年前から一緒にやるようになった次男はそれ以上の数を飼いはじめた。まさか次男と一緒に仕事をするとは思いもしなかったが、養蜂に男手はありがたくとても助かっている。時には20キロを越えるような重さも二人で持てば動かせる。内検というミツバチの様子を確認する作業はできても採蜜作業はさらに重労働で50歳代女性の私には次の日までこたえる。

はちみつを生産し、糖度確認、ビン詰め、ラベル張り、納品、直接消費者に販売までを行うようになった。住居敷地内に直売所も設け、ワークショップも開いている。ミツバチのことを知ってもらって、はちみつを食べてもらいたい。そんな想いが詰まったお店を通して、ヒトとヒトが繋がっている。

販路が広がり販売が順調になってきた今、はちみつの生産にももっと力を注がなくては、と思っている。年によって生産量に大きな差があるから売上も変わる。サラリーマンの夫を持つ私はそのことで影響はあまり受けないが、専業ではじめた次男はそうはいかない。まだ結婚していないが一家の大黒柱として生活していけるだけの稼ぎが必要であり、養蜂をとおして家族を養っていけるようになってこそ専業を続けていけるからである。

現在、試行錯誤をしながら、施設園芸にミツバチを出荷することも手掛け始めた。イチゴなどの栽培農家は県外からミツバチを購入し交配に使っているが、イチゴ農家はミツバチの専門家ではなく、秋に飼ったミツバチが春までもたず、もう一度購入し直されることがある。これを養蜂家がハウス内で時々ミツバチメンテナンスを行えばイチゴ農家の経費も減り、ハウス内のミツバチも活動しやすくなる。これは農家にとってもミツバチにとっても願うところ。この取組みを今年の夏イチゴから開始し順調にイチゴの収穫が進められている。メンテナンスを始めて分かったことはハウス内のミツバチが減る原因は、蜜切れやハウスの気温・湿度のほかに、ダニ、分蜂、薬による働き蜂の減少にある。これらはどれも養蜂家であれば対処できる内容である。

これは、県内のイチゴ篤農家の話から、取り組んだもの。彼の話がどれほど貴重であったか。顔の見える、声をかければ話ができる農家同士で支えあえるのだから、さらに良い農産物を生産できるとっかかりができたように感じている。養蜂家としてもはちみつの生産販売だけでは生活が不安定である点をミツバチの出荷で補っていければ養蜂業を試す若者が増えるのではないかと期待している。

現在、この二方向から養蜂業を考えると共に、養蜂をやってみたいという人を育てている。私が所属しているNPO法人富山みつばち協会は、非加熱で精製はちみつを足さない昔ながらのはちみつの生産をすることを強く推奨している。人の体に良いはちみつだからである。協会内では現在、6組14人程度の方が養蜂を学んでいる。県内それぞれの土地に養蜂家がいて、その養蜂家同士信頼しあえるには自分が養蜂家を育てるのが一番だと気付いたからだ。

「大切な人と、作り出す喜びを分かち合う生活の場を持つこと。そんな豊かさの中でミツバチと共にある暮らしを」、生涯かけてやりたいことが見つかったのである。

2020年11月毎日新聞農業記録優良賞受賞文